内山菜保子×張替由利子

東京芸術大学日本画専攻の学生二人による貸画廊での展覧会だ。人気の名前トップ10から「子」の付く名前が消えて久しいが、二人とも名前に「子」が付けられている。日本画を専攻するような数奇者学生の生い立ちには、やはり古典的なものがあるのだろうかと勘繰るのは、明らかに行き過ぎだろう(が、思わずそうのような予想を立ててしまう)。

二人の印象は全く異なる。電波系のくせに放ってはおけない雰囲気を無意識に醸し出してしまっている内山と、今風の端正な出で立ちの張替。対象的な二人がなぜ「二人展」を開催することになったのだろうか。

そもそも、東京芸術大学日本画専攻の学生は1学年25名しかいない。絶対数が少ないのだから、このようなちょっと異色の取り合わせも可能になってしまうのだろう。あえて言えば、同じテーマやモチーフを扱うことで、同学年・同学科の中での良い意味での競争意識を演出して欲しかった。

しかし、展覧会のステートメントで張替が述べるには、二人ともまだ日本画=岩絵具と和紙の扱いには不慣れらしく、一つのテーマに沿って展覧会を企画出来るまでには達していないそうである。そんなに謙遜しなくても年齢にしては圧倒的に巧みな技術力を有しているのだから、大風呂敷を掲げてしまえばいいのに、と思ってしまうのは見る者の贅沢なのだろうか。

そもそも、なぜそのように不慣れな日本画を専攻しようと思ったのかは、訪ねていないので分からないのだが、使い方に不慣れだからこそ、知識や技術がないからこそ生まれてくる創造力があるはずだ。その創造力を前面に押し出してしまうのは、確かに無謀なチャレンジではあるのだけれど、今しかできないことをやって欲しかった、というのもやはり見る者の贅沢だろうか。

このように、謙遜して見せる彼女たちの素直さは、恐らく東京芸術大学日本画専攻の「空気」にあるのだろう。要するに彼女たちはKYじゃないのだ。半ば意識的に空気を読みながら製作を行っている。半ば意識的であれば、半ば無意識であるということだ。そして、その無意識が画面に表れていた。

例えば、内山は「夢」をテーマにした作品を2点展示している。しかし、聖母マリアのような女性像と、崩れかけたギリシャ調の建築物の前で笛を吹く女性像は明らかに「画壇的」作品に見えてしまう。個人的な体験であるはずの夢を描写しようとした時、その表象が無意識の内に「画壇的」になってしまうのは、岩絵具に不慣れなだけでなく、すでに芸大に漂う空気=画壇に吸収されつつあることを端的に示している。

また、内山がアルバイト先の店舗を描いたという作品も、エコール・ド・パリ風の描写になってしまっている。よく見れば、そこにある風景は日本的で十二分に作家自身の愛情も感じるのだが、佐伯祐三っぽいよね、などと言われながら素通りされてしまいそうな作品になってしまっている。

ただ、彼女たちは高いデッサン力を有しており、また日本画という新しい技術を手に入れつつある。観る者とって、これから花開かんと躍動する筆に魅了されずにはいられない。

内山は非常に個人的な経験をテーマに据える。先に述べた夢というテーマもそうだ。さらに、砂漠に打ち捨てられた青い機械は、どこか未来的で、しかしすでにその機械が廃墟と化していることは、現代に生きる我々の「無常観」をシンプルに表している。メカを描くことが好きだと言う彼女の可能性は、こうした現代的感覚にあることは間違いない。オタクなモチーフとポップな描写ではなく、メカというモチーフと日本画の技法を使った作品を見たいと思った。

また、張替は技術の探究に熱心である。自らに最もフィットする技術や素材を探ろうとする姿勢は、クンストとしての芸術を突詰める行為である。そうした行為もやはり東京芸術大学という日本で唯一、かつもっとも歴史の長い芸術大学での勉学の賜物である。様々なモチーフを扱うことができるのは、彼女が冷めた客観的視点を有しているからだ。その冷静な視線を何に向けるのか。自分にフィットする技法を見つけたとき、彼女の作風は劇的に変化し、それが彼女自身を芸術家として規定するだろう。

恐らく、すでに日本画などというジャンルは消滅している。辛うじて、岩絵具を使用しているという点でのみ、日本画アイデンティティは保たれているだけだ。そして、それは幻想でしかない。

ここで、「画壇」にもう一度触れておこう。「画壇」が「文壇」と決定的に異なるのは、「画壇」の権威の失墜を前にして、誰もそのことに触れないということである(かつては誰もが触れていた)。言い換えれば、「画壇」と「コンテンポラリー・アート」の境界を誰も越えようとしないのである(かつては誰もが越えようとしていた)。そして、コンテンポラリー・アート系の人間は「画壇」を無視している(かつては誰も無視していなかった)。「画壇」だからと言って、質が低いわけではない。技術に関してはむしろコンテンポラリーより上だろう。しかし、世界で勝負できる作品=観る者にとってインパクトのある経験となり得る作品が多いのはコンテンポラリーの方だと思う。日本画がこのような苦境に立たされているのは日本近代の複雑な歴史が生んだ西洋と東洋の亀裂の結果なのだが、ここでは詳述は避けておく(いずれ触れることになるだろう)。

いずれにせよ、私は彼女たちに日本画の明日を見た。彼女たちには日本画の明日を担うだけの資格が十分に備わっているのだ。もはや戦略など要らない。現状を受け入れていけば良いだけだ。どうせ、画壇とコンテンポラリーの壁は突き破られる。だったら、最初っから突き抜けておけばいい。いや実はすでにそんな壁すらも幻想なのかもしれない。

幻想に拘泥するのは気持ちいいけれど、新しい幻想を創造してしまったほうがもっと気持ちいい。そうして、刻々と変化する自分と、刻々と変化しているはずの日本画を、彼女たちの素直さでまっすぐに受け止めた作品を見せて欲しいと思った。
今後の作品にも注目したい。




ギャラリーKINGYO

張替由利子 + 内山奈保子 展
会場: ギャラリーKingyo
スケジュール: 2009年03月24日 〜 2009年03月29日
住所: 〒113-0022 東京都文京区千駄木2-49-10
電話: 050-7573-7890 ファックス: 03-5815-7814