Beuys in Japan ボイスがいた8日間@水戸芸術館

1月24日(日)17時〜18時
ボイス展に合わせて開催されている遠藤一郎さんのパフォーマンスの最終日の祭り!が決行されるそうです。当日は甘酒やおしるこがふるまわれるそうなので、水戸の近くにお住まいの方、そしてまだ展覧会を見ていない人は是非!


「遠藤一郎がいた42日間、と残り4日」

現在、水戸芸術館で『Beuys in Japan ボイスがいた8日間』という展覧会が開催されています。展覧会は、現代美術のスーパースター、ヨゼフ・ボイスが1984年に日本に来日したときのパフォーマンスや講演会の映像、及び日本の美術館やコレクターが所蔵しているボイスの作品、そして日本の美術業界人のボイスに対する見解を集めたインタビュー映像で構成されています。


この展覧会に対して、最近の日本ではめずらしく議論の応酬が勃発しました。ウェブ上で展開された、美術批評家の福住廉さんの批評*1と、それに答えた水戸芸術館のキュレーターで展覧会のキュレーションを担当した高橋瑞木さんの応答*2です。

福住廉さんは本展覧会を以下のように総評します。

本展の展示の重心は、私が見たかぎり、ボイスの現在的な意義を考えるというより、ボイス個人のカリスマ性を再生産するほうに大きく傾いていた*3

福住さんが上記のように述べるのは、展示されている「作品」がボイスの活動の本質的な目的とずれていると考えているからです。例えば、学生との対話のために開催された東京芸術大学での議論で使用した黒板をアクリルケースに入れて展示した「作品」を取り上げて痛烈に批判しています。そして、総じて展示品から以下のような印象を受けるのだと言います。

もちろん、それらがボイスのいう「拡大された芸術概念」の現われだといえなくもないが、それにしてもフェティッシュな物神崇拝の匂いを拭い去ることはなかなか難しい。*4

このような福住さんの批判にたいして、高橋瑞木さんは福住さんの指摘した問題はキュレーターも、そしてボイス自身もすでに織り込み済であり、またそもそも美術館がそうした問題を回避できないと言います。その上で、以下のように反論しています。

アドルノの発言を今さら引き合いに出すまでもなく、美術館は美術品の墓場です。それだからこそ、シンポジウムやトークといった関連イベントのようなライブが開催されます。*5

つまり、福住さんの指摘した批判を踏まえた上で、それを超えた議論をする場として本展覧会を企画したということです。

このような議論は近年の美術業界ではあまり見ることができませんでした。一方的な批判に終わらず、しっかりと応答した高橋さんの行動は内容に関係なく評価されるべきだと思います。まず、こうした議論がより活発に行われるようになって欲しいと思います。


では、ここから若干の私見を述べてみたいと思います。

私はどちらかと言えば、高橋さんに賛同を示す者です。福住さんはカリスマとしてのボイスを再生産してしまっていると言いますが、ボイス自身が「もしそのことが他人の役に立つのであれば、私はスーパースターであることを引き受ける」という趣旨の発言をしています。また、素朴に考えてみれば、ボイスの作品を見ることは非常に面白いのです。それは、黒板であっても同じです。さらに、実は私たちは再生産され続ける作家のカリスマ性をどのような作品からも読み取ろうとしているのです。例えば、理解はできないけれどもセザンヌの作品を見に行くという行為は、セザンヌのカリスマ性を再生産する行為となるでしょう。「これはセザンヌという偉い人が描いたのだから、何かすごいものがあるのだろう。」大抵の場合、私たちはこうした見方をしています。もちろん、作家のカリスマ性と作品を結びつけて見ることに対する疑問を、私も持っています。しかし、そのような批判はボイスに対してだけ成されても意味のないことです。

しかし、福住さんの指摘した批判は的確です。そして、批判した後に福住さんは現在の私たちにとってもボイスの価値を論じています。福住さんが捉えるボイスの価値と私の見解は異なりますが、それでも福住さんの論は説得力のあるものです。(私のボイス論は、また他のところで書きたいと思います。)福住さんは、展示品がボイスのカリスマ性を再生産しているだけだと指摘しました。確かに、ほとんど無意味と思えるモノや、やたらと長い映像を展示することはボイスのカリスマ性を再生産していると言えます。この点に関しては、福住さんの指摘は的を射ています。今回の展覧会は、ボイスのモノとしての作品ではなく、ボイスの対話や行動(アクション)を重視したキュレーションになっています。その中で、ボイスの作品や彼の講演会を記録した映像は無意味なのではないかと思われます。極限すれば、そうしたモノは不必要に思われてくるのです。

それでも私が高橋さんに賛同するのは、福住さんが展覧会のキュレーションの一部を取り上げて批判しているに過ぎないと考えているからです。では、福住さんが取り上げなかった展覧会の残りの部分とは何でしょうか。


それが、『ボイスのいた8日間』と同時に開催されている、遠藤一郎さんの「愛と平和と未来のために」です。

遠藤一郎さんは水戸芸術館が『ボイスのいた8日間』のために開館している間、水戸芸術館の前の広場と会場内をただひたすらに、ほふく前進するというパフォーマンスを続けています。水戸芸術館の開館時間は9時30分から18時までですから、実に10時間半もの間、ほとんど毎日ほふく前進をしていることになります。

私は『ボイスのいた8日間』は遠藤一郎さんのパフォーマンスと合わさることで始めてキュレーションとして成立するのだと考えます。つまり、ボイスが求めたような対話や議論を遠藤さんが代替し補完しているのです。

遠藤さんのパフォーマンスはただひたすらにほふく前身を続けているだけで、そのアクション自体には全く意味がありません。しかし、遠藤さんの周りには実に多様な人々が毎日集まっています。

一緒にほふく前身をするために鹿島からやってきた母子。学校の授業の合間を縫って毎日訪れる女子高生。展覧会を見に来た学芸員。掃除の(?)おばちゃんたち。毎日、お昼のお弁当を届けてくれる近くのお弁当屋さん。通りすがりの鑑賞者たち。広場で遊ぶ小学生たち。

これらの人々は1日だけ訪れた私が実際に出会った人たちです。この中の何人かとは広場で一緒に昼食を食べ、ギターを弾きながら歌いました。私がその人たちと出会ったことも無意味かもしれません。しかし、そこに何らかの対話が生まれたということは紛れもない事実です。

遠藤さんはボイスほど雄弁ではありません。しかし、その「作品」の本質はボイスと同様なのではないでしょうか。どちらの「作品」も無意味です。しかし、どちらも対話には成功しているのです。

ヨゼフ・ボイスはもうこの世にいません。私たちは彼の映像や残されたモノを見て、想像の中でボイスとの対話を疑似体験するだけです。しかし、遠藤さんの対話に加わることはできます。ボイスのいない今、遠藤さんが対話を始めているのです。


私たちはボイスの「作品」を見ることができるのです。


ここにおいて、高橋瑞木さんがボイスの展覧会に遠藤一郎さんのパフォーマンスをぶつけた意味が分かるようになります。福住さんの言葉で言えば物神崇拝的な展示品、それに加えて遠藤一郎という生身の「作品」を展示することで、このキュレーションは初めて成立するのです*6*7


ボイスがいた8日間。そして、遠藤一郎がいた42日間、と残り4日。



「Beuys in Japan ボイスがいた8日間 」展
会場: 水戸芸術館現代美術センター
スケジュール: 2009年10月31日 〜 2010年01月24日
住所: 〒310-0063 茨城県水戸市五軒町 1-6-8
電話: 029-227-8111 ファックス: 029-227-8110


ボイスについてはほとんど何も書いていませんが、いずれどこかできっちりとしたボイス論を書きたいものです。。。

*1:福住廉「死者を呼び出し、送り返すこと──シンポジウム「21世紀にボイスを召還せよ!」レポート2009年12月15日号」

*2:高橋瑞木「artscape掲載の福住氏によるレポートについて」

*3:福住廉、同前掲論文

*4:福住廉、同上

*5:高橋瑞木、同前掲論文

*6:実際、『ボイスのいた8日間』の展示の途中に、遠藤一郎さんの作業着と写真、そしてやたら長い映像の展示された部屋が、唐突に配置されています。

*7:参考レポート:伊藤悠「BEUYS IN JAPAN−ボイスがいた8日間」関連イベント「愛と平和と未来のために」橋本誠「ボイスがいた8日間と対話と行動」