遠藤一郎 Super Canvas

「未来へ」と描かれた黄色いバンで、車上生活をしながらひたすら公道を走り続ける遠藤一郎。

遠藤はひたすら誰かにエールを送り続ける。「フレーフレー」と大きな声で叫ばれるその対象は、美術だったり俺らだったりするのだが、遠藤自身、その対象が本当に誰なのか分かっていない。

例えば、私たちが政治的変革を訴えようとしたとする。そのとき、私たちは誰に向けて自らの主張をぶつければよいのだろうか。国会議事堂にいる政治家か、自民党本部か、東京都庁か、民主党本部か、いや共産党本部か、それとも学校か、はたまた渋谷のギャルか、新橋のお父さんか。まぁどこでも誰でも良いのだが、どこでも誰でもよいということは、逆に言えば明確な標的が存在しないということなのだ。どこに訴えたところで無駄なんだ、という「ムード」が現代日本にはある。

それでも、訴えたい。「未来へ」と。

なんともダサいアーティストである。六本木ヒルズに体ごとぶつかったりする前衛的なふるまいは、今ではあまりにカッコ悪くて誰もできない。カッコ悪さがカッコ良さになる時代ではない。カッコ悪いことはカッコ悪い。カッコ悪いことをアイロニカルに嗤うことも、今ではもう流行らなくなってしまった。

だから、遠藤一郎は決めた。正面突破だ。

一郎という名前自体が正面突破な名前だ。多分長男なんだろうね。




さて、今回の展示で遠藤が選んだ支持体は、美術系の学校に捨てられていた絵画である。「こんなに描きこんでいるのに、捨てるなんて。」未来のある作家たちは、今の自分たちの作品をどんどん捨てて行く。そこへ、「未来へ」と遠藤が描いたとき、確かに、捨てられた絵画は未来へと動き始める。しかし、その「未来」はどこにもない。遠藤が「未来」と描いたその瞬間に、未来は終わる。だから未来「へ」でなくてはならないのだ。遠藤が付けた手形のごとく、未来人の手あかにまみれるだけなのかもしれない。「未来へ」の後に続く言葉を創造するのは、私たち自身である。

それでも、それでも、それでも、、、

遠藤は手形に愛を込める。バンッと、そっと。そこには母性すら感じる。いや遠藤は「一郎くん」なのだから、母性的父性と言い換えておこう。超ダサいお父さん。美術学校の生徒も、美術自体も、そんな遠藤に思いっきり甘えてしまえばいい。




ヒロミヨシイ
4月11日〜5月16日
清澄白河のヒロミヨシイギャラリー・FARMで開催中)

混浴温泉世界
わくわく混浴アパートメントに滞在されるそうです。多分、ずっといらっしゃると思います。混浴温泉世界はインリン・オブ・ジョイトイが参加するなど、非常に<刺激的>な展覧会になりそうです。すでにオープンしています。