田中功起「シンプルなジェスチャーに場当たりなスカルプチャー」

Simple Gesture and Temporary Sculpture

ガラス張りの壁に、段ボールがガムテープで張り付けられている。

Aoyama Meguroを外からみると何が行われているのかさっぱりわからない。倉庫のようにしか見えない。

ガムテープで張り付けられた段ボール。ギャラリーの中から見ると、内側には白いボードが無造作に張り付けられており、そこにプロジェクターの光が当たっている。展覧会の名称通り、場当たりなスクリーンである。

そこに映し出される映像はいかにも田中功起らしい場当たり的な作品である。ゴミ袋を車につけてふわふわさせながら疾走したり、積み上げられた椅子をよじ登って建物の二階へと侵入したり、ただポップコーンをカセットコンロで作ってみたり。

そこにコンセプトは存在するのか?と言われれば、多分ない。あるとしても大それた内容ではないだろう。そもそも大それたコンセプトは今時はやらない。革命を訴えても一つの言説として消費されるだけだし、平和を訴えるにしても大文字の「平和」ではなくて、無数の「小さな平和」の集積を訴えるしかない(それを追及する方法は模索されるべきだがここでは踏み込まない)。

しかし、田中の作品は本当に場当たり/Temporaryなのだろうか?

田中の作品には場当たりな要素よりも、綿密に予定された計画が前面に出ている。積み重ねられた椅子をよじ登って建物の二階へ行くには、かなり巧妙に椅子を積み上げなければならない。1分程度の映像作品の背後には、何百倍もの時間が費やされている。結果的に映し出される映像は、シンプルなジェスチャーではあるのだが、そこには綿密なプランニングがあるのだ。

ところで、コンセプトはやはり単純だろう。物事を記号から解放すること=極端に言えば「プッチンプリンって食べなくてもいいよね。プッチンプリンで頭洗ってもよくね?」というノリである。ここで分かるのは、コンセプトが場当たりだということである。

TemporaryなコンセプトをSimple Gestureを通してSculputureにしていくこと。開かれた可能性を、スカルプチャーへと定点化・物象化していくという極めて芸術的な態度こそが、田中の魅力なのだ。

だから、この展覧会の名称を以下のように並び替えておこう。




Temporary Sculuture
場当たりな<シンプルなジェスチャーに>スカルプチャ






Aoyama Meguro Gallery
群馬県立美術館
TOKYO SOURCE インタビュー