照沼ファリーザ

アーティストは見る主体であり、見られるものである。
アートは見られるものであり、見る主体である。

照沼ファリーザGEISAI#12でリリー・フランキー賞を受賞した。リリー・フランキー会田誠が自身の名前が冠された個人賞を与えるために、照沼ファリーザを取りあったと言う。キャッチーで食いつかない手はないアーティストが登場したのだから当然だ。

照沼は見られる主体としてはプロである。セルフ・ポートレートという手法を取ったのも自然だ。アーティストにはスーパースターもたくさんいるし、自分自身をアート作品のように見られるものとして作り上げることはウォーホルの名前を挙げるまでもなく当然の行為になっている。よって、照沼の態度は別段特異なものではない。

ところで、照沼がこれまで見られる主体のプロとして仕事をしてきたフィールドの受け手は、個室に存在していた。インターネットの普及により、ビデオ屋に行く必要もなくなったので、「作品」の入手から消費(視聴)まで完全に個室の中で行われることが一般的になっている。このフィールドにおいては、見る主体=消費者と、見られる主体=照沼は完全に区別されている。その境界は明確で、境界線を行き来することはまったく考慮されていない。

しかし、アートというフィールドにおいては事情が違うだろう。見られるものとしてのアーティストは副次的なものでしかない。アーティストは見られるものである以前に、見る主体でなければならない。完成した作品を最初に見るのはアーティスト自身であり、目指された作品象を知り得るのはアーティストだけである。従って、アーティストが見る主体として責任を持たない限り、アートは生まれ得ない。

さらに、アート作品はそれ自体がアーティストや鑑賞者を見る主体でもある。だから、アート作品とアーティスト、アート作品と鑑賞者の間には常に緊張関係が存在する。アートを体験するとは、そのような見る/見られるの関係を行き来する行為なのだ。

多くの日本人アーティストの場合、見られるものとしての意識が希薄である。それは日本のコンテンポラリー・アーティストにとって大きな障害となっている。しかし、照沼はその障害を軽々と飛び越える体力を異なるフィールドで身に付けてきた。見られるものとしては、これ以上ない強さを持っているに違いない。

しかし、見る主体としてはどうか。彼女の作品を見る限りある程度の強度を持っているようだが、同時にあっという間に消費されかねない危険性も感じられる。

これまで照沼の消費者は個室にいた。それが開かれたギャラリーやホワイトキューブに置かれたとき、逆に消費のスピードは増す。ホワイトキューブの中では、アートは圧倒的に見られるものとして位置づけられている。もし、その作品が見る主体としての存在を持っていなければ、圧倒的な地位にいる見る主体=鑑賞者によって、個室よりも早くその作品は消費されていく。

照沼にとって次に必要なことは、作品に見る主体としての強度を与えていくことだろう。テクニカルに言えば、どのようなギャラリストが彼女を育てて行くかにかかっている。彼女自身が消費されないようにしなければならない。あるいは、消費されることを逆手にとる戦略を持たなければならないだろう。

彼女を消費する関係者たちを、マゾヒスティックに優しく嘲笑う、
そんな作家になって欲しい。




照屋ファリーザ
GEISAI12受賞者